感性の限界
高橋昌一郎(講談社現代新書)
最近気分がすぐれない。何となく以前読んだことのある本を手にしてみた。きょう紹介するのは論理学・哲学の専門家が書いた『感性の限界』である。すでにこのブログで取り上げたことがあり,本書の概要を知りたい方は過去の記事をご覧ください。
以前読んだときにあまり理解できなかった第3章「存在の限界」のページを開いてみた。すると,その内容が今の私にすうって入ってきて,妙に納得したのだ。人間は,死への向かう一方で生きなければならない。フランスの文学者で哲学者のカミュは,そんな人間自体を「不条理」な存在としてみなしている(本書203ページ)。また,カミュは著書の中で「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ」(197ページ)とも述べている。
「不条理」に対処する方法を彼は3つ挙げている(204~206ページ)。
1.自殺 2.盲信 3.反抗
第1の方法は「自殺」である。自分がこの世界から消滅すれば,不条理も同時に消え去る,ということだ。だが,カミュは,自殺は「不条理」からの逃避であり真の自由に逆行すると考えて,結果的に彼はこの方法を否定している。
私自身,かつて「人生が生きるに値するか否か」について悩んだことがある。また,進路上の挫折がそれと重なり,自殺願望を抱いたことがあった。自殺に対するカミュの言葉が私の心に入り,少し痛い。
第2の方法は「盲信」である。不条理を超えた何らかの「理由」を信じることを意味する。いかなる「不条理」に遭遇しても,そこに「科学的あるいは合理的な理由」や「神が与えた試練」だとみなせば,実質的には「不条理」が消えるという方法だ。抽象的に言い換えると,何らかの「本質」を「実存」に優先して信じる方法である。だが,カミュはこれを「哲学的自殺」とみなして否定している。
そして第3の方法は「反抗」である。本書の文言をそのまま拝借すると,世界が「不条理」であることをそのまま認めて,「本質」も存在しないことを理解し,さらに人生に意味が無いことを受け入れ,その上で「反抗」するという方法である。ここでいう「本質」には,あらゆる真実を包括するような科学的,合理的本質も,宗教的な本質も含まれる。カミュはこのような反抗を「形而上学的反抗」と呼んだ。
彼の「形而上学的反抗」を象徴する作品として『異邦人』が有名である。社会で定めた環境に適応できない「異邦人」が不条理に翻弄される姿を描いた小説である(208ページ)。
久しぶりに『感性の限界』を読んでみた。私は「不条理」を認識したまま生きていきたいと思った。「形而上学的反抗」といったら大げさかもしれないが,「不条理」に対処する方法のうち,第3の方法を選択したいのだ。
ここで第2の方法「盲信」に話を戻す。本書のこの箇所を読んでみて,今月上旬に発生した「イスラム国」渡航計画事件を思い出した。まだ記憶に新しいと思うが,イスラム教過激組織「イスラム国」に参加しようとして,北海道大学の男子学生らがシリア渡航を企てた事件のことである。どこまでが事実であるかどうか私には分からないが,北大生は事件の動機として「就職活動がうまくいかなかった」と述べたらしい。
この学生に対して(特にネット上で)動機があまりに幼稚であるという声が多く見られた。だが,私は「幼稚」という意見に少しばかり違和感を抱いた。そして,本書を再読した結果,違和感がそういう意見を述べる人々に対する嫌悪感に変わった。すなわち,彼の行動を「幼稚」とみなした者に人間を語る資格は無い,ということだ。
もちろん「イスラム国」は認めてはならない過激組織であり,北大生の行動によって日本国内が動揺した。だが,「イスラム国」の問題は単なる政治的・宗教的問題ではなく,人間の「実存」に関わる哲学的問題である,と何となく感じているのだ。
第3章「存在の限界」の最後の方では,「バイオテロ」にも触れていた。地下鉄サリン事件を引き起こしたことで有名なカルト教団「オウム真理教」が,致死率の高い感染症を発症させるエボラウイルスを求めて,信者をアフリカに派遣したことがあったらしい(221ページ)。(この本は2012年に出版されたものだが)現在,西アフリカでエボラ出血熱が大流行し,感染者がアフリカ以外の地域でも出ていて,1月15日時点で4493名が死亡している。考えすぎかもしれないが,「イスラム国」がエボラウイルスを入手して「バイオテロ」を引き起こす危険性を私は不安に思っている。
高橋昌一郎(講談社現代新書)
最近気分がすぐれない。何となく以前読んだことのある本を手にしてみた。きょう紹介するのは論理学・哲学の専門家が書いた『感性の限界』である。すでにこのブログで取り上げたことがあり,本書の概要を知りたい方は過去の記事をご覧ください。
以前読んだときにあまり理解できなかった第3章「存在の限界」のページを開いてみた。すると,その内容が今の私にすうって入ってきて,妙に納得したのだ。人間は,死への向かう一方で生きなければならない。フランスの文学者で哲学者のカミュは,そんな人間自体を「不条理」な存在としてみなしている(本書203ページ)。また,カミュは著書の中で「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ」(197ページ)とも述べている。
「不条理」に対処する方法を彼は3つ挙げている(204~206ページ)。
1.自殺 2.盲信 3.反抗
第1の方法は「自殺」である。自分がこの世界から消滅すれば,不条理も同時に消え去る,ということだ。だが,カミュは,自殺は「不条理」からの逃避であり真の自由に逆行すると考えて,結果的に彼はこの方法を否定している。
私自身,かつて「人生が生きるに値するか否か」について悩んだことがある。また,進路上の挫折がそれと重なり,自殺願望を抱いたことがあった。自殺に対するカミュの言葉が私の心に入り,少し痛い。
第2の方法は「盲信」である。不条理を超えた何らかの「理由」を信じることを意味する。いかなる「不条理」に遭遇しても,そこに「科学的あるいは合理的な理由」や「神が与えた試練」だとみなせば,実質的には「不条理」が消えるという方法だ。抽象的に言い換えると,何らかの「本質」を「実存」に優先して信じる方法である。だが,カミュはこれを「哲学的自殺」とみなして否定している。
そして第3の方法は「反抗」である。本書の文言をそのまま拝借すると,世界が「不条理」であることをそのまま認めて,「本質」も存在しないことを理解し,さらに人生に意味が無いことを受け入れ,その上で「反抗」するという方法である。ここでいう「本質」には,あらゆる真実を包括するような科学的,合理的本質も,宗教的な本質も含まれる。カミュはこのような反抗を「形而上学的反抗」と呼んだ。
彼の「形而上学的反抗」を象徴する作品として『異邦人』が有名である。社会で定めた環境に適応できない「異邦人」が不条理に翻弄される姿を描いた小説である(208ページ)。
久しぶりに『感性の限界』を読んでみた。私は「不条理」を認識したまま生きていきたいと思った。「形而上学的反抗」といったら大げさかもしれないが,「不条理」に対処する方法のうち,第3の方法を選択したいのだ。
ここで第2の方法「盲信」に話を戻す。本書のこの箇所を読んでみて,今月上旬に発生した「イスラム国」渡航計画事件を思い出した。まだ記憶に新しいと思うが,イスラム教過激組織「イスラム国」に参加しようとして,北海道大学の男子学生らがシリア渡航を企てた事件のことである。どこまでが事実であるかどうか私には分からないが,北大生は事件の動機として「就職活動がうまくいかなかった」と述べたらしい。
この学生に対して(特にネット上で)動機があまりに幼稚であるという声が多く見られた。だが,私は「幼稚」という意見に少しばかり違和感を抱いた。そして,本書を再読した結果,違和感がそういう意見を述べる人々に対する嫌悪感に変わった。すなわち,彼の行動を「幼稚」とみなした者に人間を語る資格は無い,ということだ。
もちろん「イスラム国」は認めてはならない過激組織であり,北大生の行動によって日本国内が動揺した。だが,「イスラム国」の問題は単なる政治的・宗教的問題ではなく,人間の「実存」に関わる哲学的問題である,と何となく感じているのだ。
第3章「存在の限界」の最後の方では,「バイオテロ」にも触れていた。地下鉄サリン事件を引き起こしたことで有名なカルト教団「オウム真理教」が,致死率の高い感染症を発症させるエボラウイルスを求めて,信者をアフリカに派遣したことがあったらしい(221ページ)。(この本は2012年に出版されたものだが)現在,西アフリカでエボラ出血熱が大流行し,感染者がアフリカ以外の地域でも出ていて,1月15日時点で4493名が死亡している。考えすぎかもしれないが,「イスラム国」がエボラウイルスを入手して「バイオテロ」を引き起こす危険性を私は不安に思っている。